Sly & The Family Stone / スライ&ザ・ファミリー・ストーン

Sly & The Family Stone / スライ&ザ・ファミリー・ストーン
Biography

スライ&ザ・ファミリー・ストーン(Sly & The Family Stone)は、特に1967年から1975年にかけてサンフランシスコを本拠地として活動した、アメリカの人種性別混合ファンクロックバンド。アバコ・ドリーム(Abaco Dream)名義によるシングルも2枚ある。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第43位。

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Sly & The Family Stone / スライ&ザ・ファミリー・ストーンの活動

デビューまで

スライ・ストーン(本名シルヴェスター・スチュアート)は、テキサス州デントンに生まれた。父K・C・スチュアートは、教会の助祭。幼い頃、一家でカリフォルニア州ヴァレーホに移住。少年時代から音楽の才能を発揮し、1952年には、弟のフレディや2人の妹(ローズ、ヴィエタ・後にヴェット)と共に「スチュアート・フォー」というコーラスグループを結成し、「On the Battlefield of the Lord(主の戦場にて)」というレコードを吹き込んだことがある。
ヴァレーホの高校で、シンシア・ロビンソンと知り合った。フィリピン系の同級生を交えて、ヴィスケインズ(The Viscaynes)という人種混合ドゥーワップバンドを結成したこともある。この頃のスライの芸名は、ダニー・スチュアート。

高校を卒業してから地元のコミュニティカレッジに進み、音楽理論を学ぶ。卒業後、1963年にDJとしてサンフランシスコのラジオ局KSOLに入り、ビートルズやジェームス・ブラウンやボブ・ディランやローリング・ストーンズなど、人種にとらわれない多様な音楽を吸収した。この頃、オータム・レコーズ社で、ボー・ブランメルズやボビー・フリーマン、モジョ・メン、ジェファーソン・エアプレインなどのレコードをプロデュース。同時に、彼自身も数枚のソロシングルを出したが、この時は鳴かず飛ばずに終わった。

1966年に、シンシア達とスライ&ザ・ストーナーズというバンドを結成。同じ頃、弟のフレディがフレディ&ザ・ストーン・ソウルズというバンドを結成。このフレディのバンドにいたのが、グレッグである。1967年、ジェリー・マルティーニの呼びかけに応えて2つのバンドが合体し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが誕生した。スライの末の妹ヴィエタは、メアリ・マクリアリー(後に、レオン・ラッセルの妻となる)やエルヴァ・ムートンと共にコーラスグループ、リトル・シスターの一員として、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのバッキング・ヴォーカルに参加した。
デビューシングル「I Ain’t Got Nobody」をロードストーン・レコーズから出してヒットしたところ、CBSレコーズのクライヴ・デイヴィスが評判を聞きつけてアプローチしてきたため、CBSのエピック・レコーズと契約。1967年に、ファースト・アルバム『A Whole New Thing』とシングル「Underdog」を出し、絶賛はされたものの、売り上げの面では失敗に終わった。

最盛期

デイヴィスから「もっとポップな曲を」と要求されたため、渋々ながら出したシングルが1968年2月の「Dance to the Music」だった。この曲はビルボード8位を記録し、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの名を初めて全米に轟かせた記念すべき曲となった。このシングルを出す直前に、ローズが参加している。彼女は、結成当初から参加を勧められていたが、地元のレコード店での安定した職を投げ打つ決断がつかず、先延ばしにしていたものである。
アルバム『Dance to the Music』の売り上げは好調だったが、次に出した『Life』は商業的に成功しなかった。しかし売れ行きに関係なく、この2作のアルバムの影響力は絶大で、1968年9月には英国ツアーも予定されていたが、ラリーがマリワナ所持で逮捕されたために、コンサートはキャンセルとなった。
1968年の暮れに、シングル「Everyday People」をリリース。このバンドにとって初めてのナンバーワンヒットとなった。この曲はあらゆる偏見に対するプロテストソングであり、最も健全だった時期のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの思想を代表している。1969年にはウッドストック・フェスティバルに出演し、愛と平和と人種統合の理想を背景に時代の寵児となった。同年、アルバム『Stand!』をリリース。300万枚を売り上げ、60年代に最も成功したアルバムのひとつとなる。

しかし、同じ頃すでにリーダーのスライ・ストーンは麻薬中毒に侵されていた。スライが薬物に走った理由の一つは人種問題から来る軋轢で、黒人選民思想を説くブラックパンサーは、スライに対してグレッグとジェリーをバンドから追い出し、もっと黒人寄りの曲を作るように圧力を掛け続けた。薬物の影響で人格に荒廃を来たしたスライは、仲の悪いラリーにバンドの主導権を乗っ取られるのではないかとの妄想に取り憑かれ、銃を振り回し、何度となく逮捕起訴され、コンサートで大幅な遅刻とキャンセルを繰り返した。スライがラリーを殺そうとしたこともある。そのためにバンドは分解状態となり、プロモーターから見捨てられ、ファンの支持を失った。1975年1月には、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演の大失敗(僅か8分の1しか客席が埋まらなかった)を機に、とうとう活動を停止した(ただし、公式の解散は1981年)。

バンドが崩壊しつつあった時期の最後の輝きともいえるアルバムが、1971年11月の『暴動』で、一時期のスライとは似ても似つかぬ暗いトーンで仕上がっている。なお、このアルバムの題名はマーヴィン・ゲイの「What’s Goin’ On」(1971年7月)に対する返答だという説もあるが、憶測の域を出ない。

隠遁から復活へ

以後、スライはソロアーティストとして数枚のアルバムを出したが、いずれも全盛期ほどの評価は得られなかった。フレディは、グラハム・セントラル・ステーションでの活動を経てショービジネスの世界から足を洗い、薬物中毒を治し、故郷ヴェレーホで牧師となったが、今なお音楽活動を続けてCDをリリースしている。ローズは、1976年にモータウンから1枚だけアルバムを出した後、やはりショービジネスの世界から足を洗い、フレディの教会で歌っている。
スライは、短期の服役生活を経て1980年代後半に麻薬中毒から回復し、女助手2名と共にカリフォルニア州ナパバレーで永らく隠遁生活を送っている。

2006年2月8日、スティーヴン・タイラー達によるスライへのトリビュートアルバム『Different Strokes By Different Folks』(2005年7月12日リリース)がグラミー賞にノミネートされたことに伴って、グラミー賞授賞式の会場に、金髪・モヒカン・サングラス・銀ラメスーツ姿のスライが登場し、グレッグ・エリコやシンシア・ロビンソンやヴェット・ストーンたちと共に「I Want To Take You Higher」を演奏した。
2007年7月7日、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが結成40周年を記念し、カリフォルニア州サンノゼで20年振りにステージ復帰を果たした。

2008年8月31日東京JAZZ2008、9月2日ブルーノート東京で初来日公演を行った。