Prince / プリンス

Prince / プリンス
Biography

プリンス(Prince, 本名:Prince Rogers Nelson、1958年6月7日 – )は、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス出身のミュージシャン、マルチ・インストゥルメンタリスト、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、俳優である。

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プリンスは1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ゴスペル、ハード・ロック、ヒップホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでおり、俗に言うミネアポリスサウンドの中心的存在である。
イメージカラーは主に「紫」。これはアルバム「Purple Rain」発売前からのもの。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。

これまでに12作品のプラチナアルバムと、30曲のトップ40シングルを生み出し、アルバム・シングルの総売り上げは、1億2,000万枚に上る。
ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」において第1位、
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第30位。

Prince / プリンスの生い立ちと活動

プリンス・ロジャース・ネルソンはジャズミュージシャンを両親に持ち、音楽とともに育った。ジュニアハイスクール時代に、友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現し、ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。
メジャーレーベルは、こぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザーズと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する。

1978年、プリンスはたった一人でデビューアルバム For you を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。
1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム Prince を発表。
I Wanna Be Your Loverは全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。

1982年頃から、プリンスはバックバンドをザ・レヴォリューションと名付けた。それに伴い、アーティスト表記もプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変わった。レヴォリューションは、メンバーを若干変動させつつ1986年まで存続する。

1982年に2枚組アルバム 1999 をリリースしたプリンスは、ついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは Little Red Corvette(6位)、1999(12位)、Delirious(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンと共に名を連ねることになる。

1984年、同名映画のサウンドトラックとして「パープル・レイン」が発表され、プリンスのコマーシャル的な価値は頂点に達する。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた When Doves Cry、Let’s Go Crazy の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。なお、本作からは他に Purple Rain(2位)、I Would Die 4 U(8位)、Take Me With U(25位)がシングルカットされている。また、When Doves Cry は年間シングルチャートでも1位を獲得している。

プリンスの自伝映画として製作されたこの映画『パープル・レイン』は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年のアカデミー賞歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像は、後にプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。
全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた パープル・レイン の収益でプリンスは独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立する。1985年にこのレーベルから Around the World in a Day を発表。前作とはがらりと作風を変えてきたこのアルバムも、全米チャートで1位を獲得する。

翌1986年には、監督をも努めた映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックとして Parade を発表。映画自体は興業的に失敗するものの、アルバムは全米で3位となり、シングルカットされた Kiss は全米1位を獲得する。

1987年には、2枚組アルバム Sign “☮” the Times を発表する。ツアーの撮影したものをベースに作成された同名の映像作品も発売されている。
同年、The Black Album がレコーディングされるが、発売直前になって発売が中止される。この音源はブートレグとして流出し、世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは、最終的に1994年にワーナー・ブラザーズから発売されている。

1989年、映画『バットマン』のサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(ダニー・エルフマンによる映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。初回限定で缶入りCDも発売された。アルバム、およびシングルカットされた Batdance はチャート1位を獲得する。またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。

3月には当時、恋仲が噂されていたマドンナのアルバム『ライク・ア・プレイヤー』が発売。『ラヴ・ソング』をマドンナと共作&デュエットした。

1992年には、独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため、本国では”Symbol”と呼ばれ、日本では「ラブ・シンボル」と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールス。

1993年、プリンスはワーナー・ブラザーズと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザーズの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードが、プリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖。それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立する。

その際にプリンスはその名を捨てる。1994年発売のComeにおいて「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 – 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボルを自らの名とした。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。

2000年、ワーナー・ブラザーズ傘下の出版会社ワーナー・チャペルが管理する出版権が切れるのを機に、自分の名前を正式にプリンスに戻すと発表。
2001年、プリンス名義としては9年ぶりのオリジナルアルバム The Rainbow Children を発表。宗教的でスピリチャルな内容で、ターニングポイントの作品。

、2004年2月に第46回グラミー賞のオープニング・アクトをビヨンセと共演。3月にはロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターはアウトキャストとアリシア・キーズが務めた。4月にコロムビアと配給合意し、アルバム Musicology を発表。コンサートツアーが全米で年間最高の観客動員数と収益を記録し、第47回グラミー賞でも2部門を受賞。米音楽シーンの中心に返り咲いた。

2006年3月にアルバム 3121 を発表、ビルボード総合アルバム・チャートで初登場1位を獲得した(通算4枚目の全米No.1アルバム、初登場1位は今回が初めて)。

2008年2月、第50回グラミー賞にて、最優秀R&B男性ボーカル賞を受賞。