James Brown / ジェームズ・ブラウン

James Brown / ジェームズ・ブラウン
Biography

ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 – 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。
「ファンクの帝王」と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Show Business(ショウビジネス界一番の働き者)と称される。シャウトを用いたヴォーカルと、斬新なファンク・サウンドが特徴である。

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James Brown / ジェームズ・ブラウンの生い立ちと活動

1933年にジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、世界恐慌時のサウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。成長するにつれ、彼は犯罪に手を染め、16歳の時に車の強盗の罪で有罪判決を下され、1948年からトコアの教護院に収容される。服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合い、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。その後、ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。

1950年代(ミスター・ダイナマイト)

ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。
バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。

これらの初期の録音には「I’ll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、上述のPファンクはもちろん、プリンスなどに強い影響を与えた。

1960年代(ファンク革命)

ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。
ライブ・アルバムが成功した後、最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「Out of Sight」を発表。さらに「Night Train」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり、好調を保った。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。67年ごろのJBのドラムスには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した大傑作ナンバーである。

1970年代(ファンキー・プレジデント)

1970年3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.’s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。

1970年の末からは、フレッド・ウェズリーが音楽監督となった。フレッド・ウェズリーが75年に脱退するまでの4〜5年間は、「ファンク完成期」とでも言うべき時期であり、ブラウンの充実期である。

1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリと王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画「モハメド・アリ かけがえのない日々」や映画「SOUL POWER」で観ることができる。

その後、1975年頃から起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ダンス・ミュージックのオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『Get Up Offa That Thing』や77年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎える。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。

1980年代(アイム・バック)

JBは、1984年にラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒットし、久々に音楽シーンの注目を集めた。86年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画「ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして同年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに88年には、フルフォースのプロデュースによる大傑作「アイム・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師」として尊敬され、JBの曲はサンプリングされまくる。

しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、マシンガンを持って家を飛び出し公園のトイレの便器に向かって乱射し、駆けつけた警察とオーガスタの州間高速道路20号(Interstate-20)でカーチェイスを行った末、ジョージア州の隣のサウスカロライナ州境付近でガス欠となって逮捕され、6年の実刑判決を受けた。

1990年代

1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの “Star Time” を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。
1992年2月25日、ブラウンは第34回グラミー賞特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、1993年11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り James Brown Boulevard」と改名し記念式典を行った。1998年には「ブルース・ブラザース」の後編である「ブルース・ブラザース2000」に出演した。

死去

ブラウンは2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去はCNNやBBCなど世界中のメディアでトップニュースとして報じられた。